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‘礼拝メッセージ(抜粋)’

「私たちの土台、それは創造主」2023/5/7

「私たちの土台、それは創造主」(伝道者1:1~11、12:1)

豊臣秀吉の辞世の句に「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」とあります。そのような思いを持ったことがあるのは彼だけではないでしょう。聖書ではむなしい生涯の理由は、土台がないからだと語っています。土台とは創造主である聖書の神の存在です。

●土台のない生き方。その結果は「むなしさ」。

伝道者の書の「伝道者」とはソロモンという王とされています。彼は紀元前約1000年の人物で成功した王でした。その彼が自分の人生を振り返って記しています。その内容は、まず「人生はむなしい」ということです。彼は「空の空」「すべては空」と語っています(1~3)。「空」とは「すぐに消えてしまうもの」の比喩です。人生はそんなもの、という方もいますが、聖書にはそのむなしさから解き放たれる道が示されています。

●土台のある生き方とは創造主を中心とする生き方。その結果は満足と喜び

そのむなしさから解き放たれる道を聖書は私たちに示しています。それは人の本来の生き方に帰ることです。人本来の生き方とは、創造主である神を土台として生きる生き方です。それが12章の1節にある「あなたの創造者を覚えよ」です。この創造者である神を覚える時、人本来の姿で生きることができるのです。人本来の姿とは喜びや満足のある生き方です。本来人はそのように造られたからです。

●その土台のある生き方をしよう

私たちは創造主を覚え、喜びや満足のある生き方をすることできれば幸いです。「覚えよ」とあります。この「覚えよ」とは「心に据える」ということです。創造主を自分の心の土台とするのです。具体的には聖書は神のことばを土台として据える生き方です。創造主を土台として生きましょう。それは今、という時が大切です。年代に関わらず、主を求めましょう。そして新たな一歩を踏み出していただれければ幸いです。

「復活の主への礼拝」2023/4/9

メッセージ  「復活の主への礼拝」

マタイ28章1~10節

今日はイースターの礼拝です。 週の初めの明け方、つまり日曜日の朝の出来事でした。主に従っていたマリアたちが主イエスの墓に来ました。そこで復活の主イエスに出会ったのです。当時の弟子たちは主イエスを失い、失望し、不安、恐れの中にいました。ですが、復活の主への礼拝は当時の弟子たちに、それら大切なものを取り戻しました。それは今の私たちにも当てはまります。

●原点を取り戻すこと

「イエスを拝した」とあります。マリアたちは主イエスに出会い、まず行ったことは礼拝でした。「礼拝」は人だけが行う行為です。それは体や心だけでなく、人の中心である霊的な行いという点でも、人の原点とも言えます。 主イエスは「ガリラヤに行くように」と弟子たちに語られました。ガリラヤこそが、主イエスと弟子たちの活動の原点だからと言えます。礼拝は私たちの原点です。教会が存在する理由も集まって礼拝を献げるためです。

●喜びと力を取り戻すこと

二つ目に復活の主イエスの礼拝は、私たちに喜びをもたらします。マリアたちに主イエスは、「おはよう」と声をかけられました。「おはよう」は、「喜びがあるように」という意味をもっています。

同時に弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。復活の主イエスは私たちを愛し、家族の一員として招いているのです。喜びや愛は力を生みます。それは、私たちが日々生きる力の源泉となるのです。

●励ましとチャレンジを取り戻すこと

最後に復活の励ましとチャレンジを取り戻します。弟子たちは信じ従ってきた主イエスを失い、失望と不安の中にいました。その弟子たちに主イエスは励ましとチャレンジを与えました。励ましとは「主イエスがともにいてくださる」ということです。そして主は弟子たちに彼らの使命を取り戻されました。19、20節にあるように伝道を励ましたのです。私たちも復活の主イエスは礼拝を通じて励ましとチャレンジを与えくださいます。この主を礼拝し続けましょう。

「真の知識の源泉」2023/3/5

メッセージ  「真の知識の源泉」詩篇139篇1~24節

私たちは様々な所から知識を得ます。他の人や書籍、メディア、インターネットから等です。そしてその知識が役立つことも多いでしょう。樋野先生が繰り返されていたのは、ことばの処方箋です。そのことばの源泉は内村鑑三や新渡戸稲造、南原繁といった人々のことばからです。いずれも日本を代表する知識人です。彼らが大切にし、知識の源泉としていたのが聖書です。聖書は他の書物と決定的に違います。聖書は神のことばです。その神のことばである聖書には真の知識の源泉があるのです。

今回の139篇は聖書の神とはどのようなお方か、ということが記されています。1節に「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」とある通り、神が、ただ漠然とすべてのものを知っておられるというのでなく、私たち一人ひとり詳しく知っておられるのです。神は、私たちの心の奥底までも読み取り、知っておいでになるのです。神は私たちを完全に知り尽くしておられます。それは聖書の神が私たちの創造者だからです。13節から6節は、神の創造が記されています。今、創世記を礼拝で学んでいます。その最初には神がこの世界を造られたとありました。同時に神は人を造られました。

この詩篇が「あなたこそ、私を組み立てられた」と、「私の創造」が語られています。神は、私たちが母親の胎内に宿ったその時から、私たちを見守っていてくださるのです。16節の「私のために作られた日々」とは、人生の日々のことです。聖書の神は私たち人生のすべて見ておられ、知っておられる方です。ここに真の知識の源泉があります。聖書の神は私たちのすべてを知っておられる方です。

ただ、神は造られただけではありません。ご自身が造られた私たちを愛しておられます。そして、常に良いものを与えようとしてくださるのです。だからこそ真の知識を与えることができるのです。それはただの知識ではありません。私たちに救いを与え本当の幸せと豊かさを与えるものです。この聖書を尚、知り、真の知識を得ていく、そのような生涯であれば幸いです。⑦

「私たちの所有地」2023/2/19

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 「喜ぶ者、悲しむ者とともに」2023/1/29

メッセージ  「喜ぶ者、悲しむ者とともに」

ローマ12章9~17節

今日は教会総会です。今年もコロナの影響、また、悲惨な戦争も続いています。その現実の中でも、私たちは前進していく必要があります。そのために今年のテーマは「伝道」と導かれています。「伝道」とは「道を伝える」ことです。聖書ですと「福音を伝える」という意味ともなります。福音とは主イエスの十字架の贖い、そして神の愛を伝えることです。それが人にとってもっとも幸いな道だからです。

伝道方法は様々ですが、大きく分ければ、二つです。「語る、伝える」、もう一つは「行う」ということです。主の愛を語ると同時にあるいはその前にそれを実践し、行いをもって神の愛を伝えるのです。人間の苦しみ、要求に応じることが中心となります。

私たちの教会は「豊かなつながりのある教会」として三つのつながりを大切にしてきました。今年からは地域とのつながりをもう一度、新たにしたいと願っています。

その中心となるみことばが、ローマ12:15です。「 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」とあります。他人の喜びを自分のことのように喜び、他人の悲しみを自分のことのように悲しむのです。これが他の人々への神の愛の表れ一つです。 もちろんそれは簡単なことではありません。他の人の気持ちを理解するのは限界もあるからです。

その時、大切なことは「きく」ということです。「きく」とは「聞く」「聴く」「効く」などです。この「聞く」「聴く」は、人の心を癒すという意味で「効く」ことができます。病を抱えている人たちだけではありません。この手紙は使徒パウロが紀元56年頃書いたものです。そこには、格差や貧困、差別がありました。それは今でも変わりはありません。 困難な時代です。まだまだ制約もあります。ですが私たちの教会はその中でも可能な限り、地域の方々とともに歩みましょう。様々なプログラムも予定されています。それらを通じて人の喜び、悲しみを「きく」ことができ、祈り、励ます教会となれば幸いです。そして本当の解決である、主の救いを伝えていくのです。そのような歩みをこの年、続けましょう。

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